やりまんと呼ばれた私がこうなるまで

自覚はないんですがヤリマンと周りではいわれていたようです。今は真面目なシンママしてます

【実話】六本木ホステス殺人事件、さらには200人以上を強姦した

皆さん、こんにちは。

今回はちょっとテイストを変えてゾッとする事件について書いてみようと思います。

 

この恐ろしい事件をご存知でしょうか?2000年7月、東京・六本木で働く外国人ホステス、ルーシー・ブラックマンさんが突然失踪しました。彼女は8ヶ月後、あまりにも無残な姿で発見されることになります。この事件は、ルーシーさんの母国であるイギリスの首相も言及するほど高い注目を集めましたが、裁判の最終判決が下るまでに10年もの歳月を要しました。今回は、このルーシー・ブラックマンさん殺人事件の全貌と、事件の容疑者である織原城二という男について、詳しく解説していきたいと思います。


六本木外国人ホステス失踪事件の始まり

事件は2000年7月1日、六本木のクラブで起こりました。ホステスとして働いていた21歳のイギリス人女性、ルーシー・ブラックマンさんは、わずか1ヶ月前に日本にやってきたばかりでした。

実際の写真


事件当時、ルーシーさんはホステス仲間と連絡を取っており、「今、お客様とドライブデート中です。これから海岸に向かいます」とメッセージを送っています。さらにその2時間後には「あと1時間程度で帰りますイギリス首相であったブレア氏が来日していました。ブレア首相は当時の森首相との会談でこの事件を取り上げ、警察に犯人逮捕を強く要請しました。これにより、事件は日本とイギリス両国で大きな注目を集めることになります。

翌月、ルーシーさんの妹が記者会見を行い、有力情報を呼びかけ、懸賞金を設定しました。当初は1万ポンド(当時の日本円で約160万円)でしたが、翌月以降、懸賞金は10倍にまで大幅に増加しました。そして10月、ついに一人の男が逮捕されます。それが、冒頭でも紹介した織原城二、当時48歳でした。彼はルーシーさんが勤めていたクラブの常連客であり、不動産管理会社を経営する社長で、大金を稼いでいた人物でした。


織原城二の逮捕と自宅からの驚くべき証拠

警察が織原の自宅を家宅捜索した際、驚くべき光景を目にすることになります。そこには大量の違法薬物が存在し、さらに織原が白人女性を襲う様子を記録したビデオテープが発見されたのです。

この押収されたビデオから、さらに驚きの事実が明らかになります。映像には複数の女性が映っており、これをきっかけに、織原が過去に何人もの女性を無理やり襲ってきたことが発覚したのです。その中には、オーストラリア人女性を殺害した事件も含まれていました。

しかし、肝心のルーシーさんはまだ行方不明のままでした。そんな中、ついに翌年2月、警察は神奈川県三浦市の海岸にある洞窟の中でルーシーさんを発見します。発見されたルーシーさんは、なんとバラバラに切断され、セメントで固められていたのです。


織原城二の異質な生い立ちと異常性の形成

織原は1952年に大阪で生まれました。彼の両親は韓国人で、出生名はキム・スンジョンでした。スンジョンの父親は貧しい移民でしたが、日本に来て以来、不動産会社、駐車場経営会社、タクシー会社、パチンコ屋など数多くの会社を立ち上げ、巨万の富を築き上げた大富豪でした。スンジョンはそんな裕福な家庭でお坊ちゃまとして育てられました。

中学校卒業後、父親の勧めで慶應の付属校に進学します。その際、父親は入学祝いとして田園調布の一軒家をプレゼントしたほどです。何不自由ない暮らしを送っていたスンジョンでしたが、彼には一つだけコンプレックスがありました。それは、韓国人であることでした。

そこでスンジョンは、父親の経済力を武器に「日本人になる作戦」を決行します。手始めに、高校生ながら外科手術を受け、目を大きくして韓国人らしさを軽減させました。さらに21歳で日本国籍を取得し、名前を「織原城二」に変更、日本人として再出発を図ります。

その後、父親が亡くなり莫大な遺産を相続した彼は、その金をもとにそれまで以上の贅沢三昧の生活を送ります。30代以降に始めた事業でも大成功を収め、最終的には40億円もの資産を手にするに至りました。

しかし、彼の人生には一つの問題がありました。我々一般人からしたら全く共感できないことですが、幼い頃からの贅沢三昧により、彼はあらゆる娯楽に飽きてしまっていたのです。そのため、彼はどんどん強い刺激を求め、最終的には合法の範囲を飛び越える行為に手を染めることになります。


異常な性癖と巧妙なターゲット選択

織原が特にハマっていたのはSMプレイでした。彼は超ドSで、聞くだけでもかなり不快なプレイを繰り返していました。さらに織原にはもう一つ異常な性癖がありました。それは、全てのプレイをカメラで記録し、詳細に記録することでした。その記録量はまさに破格で、17歳から逮捕される48歳までの約30年間で撮影した量はなんと200件以上。つまり、織原の毒牙にかかった犠牲者は200人以上に上るのです。

織原は、犯罪のターゲットを外国人ホステスに絞っていました。彼が外国人ホステスを狙った理由は、彼女たちが「弱い立場」の人間だったからです。彼女たちは被害に遭ったことを相談しようにも、故郷ではないため頼りになる人物が周囲にいません。その上、異国で働く彼女たちの中には観光ビザで働く「不法就労」状態の者も多く、性的暴行を警察に話す精神的苦痛に加え、自身が逮捕されるリスクもあったため、警察に行きづらかったのです。実際、事件が起きるまで被害届を出した外国人ホステスは一人もいなかったとされています。織原は、人の弱みに付け込む、非常に計算高い人間でした。


なぜルーシーさんの事件で「失敗」したのか

これほど巧妙に犯罪を繰り返してきた織原が、なぜルーシーさんの事件で逮捕されるようなヘマをしてしまったのでしょうか。

実は、織原は1999年頃から事業で失敗し始めていました。その負債はなんと約200億円という途方もない額に達していました。これを機に、織原は持ち前の冷静な判断力を失っていったとされています。彼にとって、お金がなくなるということは人生で初めての経験でした。その一方で、事業失敗のストレスは、性的な欲求をどんどんエスカレートさせていきます。

その結果、彼は致命的なミスを犯します。彼はルーシーさん殺害の直前、周りのSM愛好家にこんなことを漏らしていました。「背が高く、胸の大きな外国人ばかりを誘拐し、専用のアジトに連れ込んでプレイした後に殺すまでの一部始終をビデオカメラに収めたい」。この発言を聞いていたSM仲間が警察に証言したことで、織原は捜査線上に浮上することになったのです。


泥沼化した裁判の経緯と驚きの逆転劇

こうして織原は逮捕され、裁判を迎えることになります。しかし、この裁判が予想に反して泥沼化していくのです。

検察側は、織原の自宅から押収されたビデオテープに加え、もう一つ強力な証拠を持っていました。それはDNA鑑定の結果です。織原のマンションから採取された髪の毛がDNA鑑定によりルーシーさんのものだと判明し、織原の部屋にルーシーさんがいたことが確実に立証されたのです。これにより、検察側は一方的な勝利を確信していました。

しかし、織原はここから驚くべき反論を展開します。彼の「切り札」となったのは、他ならぬあのビデオテープでした。これまで数々の犯行を記録してきたビデオテープは、織原にとって弱みでしかないはずでしたが、彼はこれを必殺の武器に変えました。

実は、ルーシーさんを襲ったとされる映像だけが、ビデオテープに残っていなかったのです。そこで織原は、次のような主張を展開します。 「検察側が死亡したとする事件の直前、自分のマンションの部屋で被害者と会ったことは認める。DNA鑑定の結果があるため、ルーシーと接触したことは認めざるを得ない。しかし、強姦や死亡事件に関しては、知人が関与していた。そもそも自分は無理やり襲ってもいないし、殺害もしていない。なぜなら、もしそうしていたなら、絶対に撮影しているはずだからだ」。

つまり、彼の完璧すぎる「記録癖」が、かえってルーシーさん殺害に関する無罪の主張に利用されたのです。しかも、関与したとされる知人はすでに亡くなっていたため、事件の真相は闇の中へと消えていきました。

そして2007年7月、第一審の判決が下されます。東京地裁は、9人の女性を襲い、そのうちの1人を死に追いやったとして織原に無期懲役を言い渡しました。しかし、ルーシーさん殺害事件に関しては、「事件に関与した疑いはあるが証拠不十分」として、無罪の判決を下したのです。織原の策略が功を奏した形となりました。

この判決に対し、東京地検はルーシーさん事件の無罪を不服として東京高裁に控訴。一方、織原側もさらなる良い結果を求めて控訴しました。

第二審を前に、織原はさらに策を巡らせます。被害者遺族に対し、お悔やみ金としてなんと1億円を贈呈し、インターネット上では織原の無実を訴えるウェブサイトまで開設される始末でした。

しかし、判決は想定外の結末となります。東京高裁は一審判決を棄却し、判決を変更したのです。東京高裁は、ルーシーさん殺害事件に対し、「未遂ではあるが実行の意志があった」とし、織原に無期懲役の判決を下しました。良い判決を狙った結果、むしろ悪い判決となったのです。

ここで焦った織原側は判決を不服として最高裁に上告しますが、2011年に上告が棄却され、無期懲役が確定しました。


結び:織原城二の現在と私たちへの教訓

織原城二は現在、主に凶悪犯が収容される長期刑務所で服役しています。

彼の異常な行動の背景には、恵まれすぎた環境で育ったゆえの刺激への飽き、そして韓国人であることへのコンプレックスがありました。しかし、最も彼に必要だったのは、自分を律する強い心だったのではないでしょうか。それは、どれほど巨額の財産をもってしても決して買うことのできないものです。

この事件は、人間の心の闇と、それに立ち向かう社会の難しさ、そして自分自身をコントロールすることの重要性を、私たちに強く訴えかけていると言えるでしょう。